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千葉地方裁判所 昭和54年(ワ)471号 判決

主文

一  被告中村幸男及び被告千葉県は、各自、原告藪塚運輸株式会社に対し、金一八七三万九〇〇〇円及びこれに対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告日野興業株式会社に対し、金八六八七万三九五八円及び内金八四八七万三九五八円に対する昭和五四年四月一日から、内金二〇〇万円に対する昭和五七年四月二二日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告森文雄に対し、金一二三八万八二五二円及び内金一一二八万八二五二円に対する昭和五四年四月一四日から、内金一一〇万円に対する昭和五七年四月二二日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告吉田信雄に対し、金三五万五六〇〇円及び内金三二万五六〇〇円に対する昭和五四年四月一四日から、内金三万円に対する昭和五七年四月二二日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告土屋健夫に対し、金一八五五万一一九八円及び内金一六八七万一一九八円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告土屋優美子に対し、金一八五万一四一三円及び内金一六九万一四一三円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告土屋健次に対し金一八五万一四一三円及び内金一六九万一四一三円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告土屋稔に対し金一八五万一四一三円及び内金一六九万一四一三円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告土屋良江に対し金一八五万一四一三円及び内金一六九万一四一三円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告田中好美に対し金一三〇万一四一三円及び内金一一九万一四一三円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告小松崎忠雄に対し金一八八万九二九一円及び内金一七一万九二九一円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告河西明に対し、金八一万一六六六円及び内金七四万一六六六円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、原告萩原信二に対し、金一〇七万七五〇〇円及び内金九七万七五〇〇円に対する昭和五四年四月一四日から支払いずみまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

二  原告藪塚運輸株式会社、原告日野興業株式会社、原告森文雄、原告土屋健夫、原告土屋優美子、原告土屋健次、原告土屋稔、原告土屋良江、原告田中好美、原告小松崎忠雄、原告河西明及び原告萩原信二の被告千葉県及び被告中村幸男に対するその余の請求、原告らの被告石井正夫に対する請求、原告日野興業株式会社、原告森文雄及び原告吉田信雄の被告市川市に対する請求を、いずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告藪塚運輸株式会社と被告中村幸男及び被告千葉県との間に生じたものは、二分し、その一を右被告らの、その余を右原告の、原告日野興業株式会社と右被告らとの間に生じたものは、五分し、その三を右被告らの、その余を右原告の、原告森文雄及び原告吉田信雄と右被告らとの間に生じたものは、全部右被告らの、原告土屋健夫、同土屋優美子、同土屋健次、同土屋稔、同土屋良江及び同田中好美と右被告らとの間に生じたものは、五分し、その三を右被告らの、その余を右原告らの、原告小松崎忠雄と右被告らとの間に生じたものは、七分し、その六を右被告らの、その余を右原告の、原告河西明と右被告らとの間に生じたものは、全部右被告らの、原告萩原信二と右被告らとの間に生じたものは、一二分し、その五を右被告らの、その余を右原告の、各負担とし、以上の原告らと被告石井正夫との間に生じたものは同原告らの各負担とし、原告日野興業株式会社、同森文雄及び同吉田信雄と被告市川市との間に生じたものは、全部右原告らの負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

理由

第一  事件の概要について

一  本件は、汚泥を埋め立てて処理していた被告中村所有の第一処理場が、内部の汚泥の圧力によって周囲の土手の一部が決壊し、汚泥が隣接土地建物に向かって流出してこれを埋没させ、その所有者や利用者に損害を与えたとして、右土地建物の所有者である原告藪塚運輸、同日野興業、同日野興業の下請け業者として出入りしていた原告森、同吉田、同小松崎、同河西及び同萩原、下請け業者であり家族で原告日野興業の敷地内に居住していた原告健夫らが処理業者の被告中村、監督官庁の被告県及び同市並びに土地所有者の被告石井に対し、損害賠償を求めた事件である。

二  事実関係における主要な争点は、各時点における第一処理場の状況、危険性の程度とそれに対する当事者の認識及び対応である。

第二  被告中村が処理場を始めてから本件事故に至るまでの経過

一  弁論の全趣旨により以下の事実関係は当事者間に争いがないと認められる。

1  被告中村所有の第一処理場、第二処理場、保管場所、原告藪塚運輸及び同日野興業の土地建物の位置関係及び所有、利用関係は別紙第一、二、六ないし九図面のとおりである。

2  被告中村は、被告石井所有の土地を借りて、昭和五二年春ころから第一処理場の市道一〇二号線(以下「産業道路」という。)寄りの部分で汚泥の埋立処理業を始め、次第に第一処理場全体に範囲を広げ、また、産業道路の向かい側に第二処理場を、さらに、山野栄一所有地に保管場所を設置した(別紙第九図面参照)。

3  昭和五四年四月一四日午後七時ころ、第一処理場の東側土手の最南端が崩れて大量の汚泥が原告藪塚運輸及び同日野興業の土地建物方向へ流出し、建物等を埋没させ、原告健夫の子利夫が死亡する等の被害が生じた本件事故が発生した(別紙第七、八図面参照)。

二  そこで、以下被告中村が汚泥処理場を始めてから本件事故に至るまでの経過を証拠により認定する(なお、各書証の成立関係は別紙書証成立一覧表のとおりである。)。

1  (本件現場の状況)

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

本件現場は、原木中山駅の南東約一・二キロメートル、高速湾岸線の北約四〇〇メートルに位置する。第一処理場の北側、第二処理場の南側は、江戸川から真間川をわたり、船橋方面へ南西から北東に伸びる産業道路(幅八・八メートル)に面している。第一処理場の南東側に原告藪塚運輸、同日野興業の土地建物があり、西側に武藤スケールの資材置き場、さらにその西側に京葉興業の処理場があり、さらに続いて南西側(本件現場から約三〇〇メートル)は工場、倉庫等があり、産業道路の北東約二〇〇メートルの原木橋で真間川をわたると、右手に東京エアカーゴシティターミナルが、左手には原木四丁目の住宅地がある。北西側には高谷中学校(現在は場所を移転)、信篤小学校がある。周辺地域には前記各施設の外は水田、畑、原野等が多い(別紙第八、一〇、一一図面参照)。

2  (被告中村が第一処理場の土地を賃借した経緯及びその後の経過)

(一) (当初の契約)

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

被告中村は、昭和五二年春ころ、地元の農家で、原木山妙行寺の信者である被告石井を住職の加藤智顕から紹介され、同被告に対し、休耕田である同被告所有地を、土砂の埋め立て用地として貸してほしいと申し出て、同被告の承諾を得た。

この契約に際しては、被告中村は誓約書との表題のある、周囲に迷惑をかけないという簡単な内容の契約書を作成して持参し、被告石井は深く検討せずに、賃料も定めずに承諾した。被告石井としては、市川市原木二四七四番一二と、同番一〇、同番一一、同番一四の各一部の約八〇坪の土地を貸したつもりであった。

被告石井は、同年六月ころ、被告中村を現地に案内し、貸した土地と、被告石井が他人に賃貸している土地との境界を示し、はみ出すことのないように注意した。

被告石井所有のこれらの土地は、産業道路と比較して、ほぼ平らか若干低い程度の高さの草地と沼地であった。

(二) (被告中村の第一処理場の拡充状況)

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

被告中村は、当初被告石井から借りた土地では処理できなくなり、その奥の、同被告が、小作人の平田利道や石井大五郎に貸している土地にまで(市川市原木二四七四番五ないし九)、第一処理場を拡充した。被告石井は、これに気付いたが、被告中村から右小作人らの同意は得ていると聞いたので、いったん納得した。ところが、被告中村が同年七月ころには、同所二四七三番四や石井正一所有地(同所二四七三番三)の方まで埋め立てていたので、被告石井が、やめるように申し出たところ、被告中村は、やめるのであれば事業のために支出した費用の損害賠償をして欲しいと述べる等して話し合いはまとまらず、ただ、貸した土地の範囲を明確にするために、契約書を作成することについては、被告中村も承諾し、その日は別れた。

被告石井は、数日後、立会人として加藤住職に名前を出してもらい、貸した土地の範囲の限定、監督官庁の指示の遵守等を内容とした新たな契約書を作成し、被告中村に署名捺印を迫ったが、同被告は、自分の方でも別の契約書を用意しており、被告石井の用意した契約書にその場で署名しようとせず、後で使用人に印をおさせるようなことも言っていたが、結局そのままになってしまった。

(三) (その後の経過)

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

被告石井は、昭和五二年一二月ころには被告中村が第二処理場を始め、また、昭和五三年春ころ及び冬ころ、被告中村の使用人である高沢を通じて被告石井の土地を返すと言っていると聞き、さらに同年夏ころ、第一処理揚の汚泥が乾燥してひびわれているのを見たので、自分の土地については汚泥の投棄は終了したものであり、乾燥したら返してもらえると信じて待つことにした。被告石井は、この付近に他にも畑を所有しているので、時折見て歩いてはいるが、第一処理場については、その後本件事故に至るまで特に状況を確認することはなかった。

被告中村は、第一処理場を真実返すつもりになって搬入を一時中止したこともあったが、後記3のとおり、第一処理場をいったん掘り返して余裕ができ、また第二処理場も一杯になったので、再び第一処理場に搬入を始めた。

3  (被告中村の汚泥処理の方法及び土手の築き方)

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

(一) 被告中村は、第一処理場には、東京方面の建設現場から排出される、ベントナイト汚泥を中心に捨てていた。ベントナイト汚泥が八ないし九割で残りはリバース残土である。

ベントナイト汚泥とは、トンネル工事等の掘削現場において、掘り出した土砂が崩れるのを防ぐために、ベントナイトという粘土質の物質を土砂に混入して掘削を進めるので、その工事後に残るベントナイトの混ざった土砂のことである。このベントナイト汚泥は、法二条三項に規定する産業廃棄物に該当する。これは、水分を多量に含み、流動性が高いので、本来は堅固な囲いを構築して捨てるべきものである。リバース残土も、水分含有率は少ないが、同様に産業廃棄物である。また、いずれも被告県の要綱第二の一のベントナイト汚泥等に該当する。

(二) 被告中村は、東京都江戸川区に事務所を有し、現場では、当初は第一処理場の産業道路沿いの所にバスを置いて現場事務所代わりにしていたが、後に第二処理場の方に現場事務所を作った。その後もバスは置いてあった。

被告中村の営業は、個人企業たる中村工業として行っていたが、昭和五四年二月には、幸伸工業と名前を変え、法人化の準備をしていた。社長は被告中村、専務は五三年一〇月ころに後記アースロックの販売会社キャニオンから入ってきた田山雅司(以下「田山」という。)、常務は高橋良明にする予定であった。この三名は江戸川の事務所にいて、本件現場は、当初は現場所長の久保木道昭(以下「久保木」という。)、五四年二月からは現場所長の高沢忠夫(以下「高沢」という。)に任され、その監督を右高橋が行っていた。田山と右高橋は、被告県、同市の行政指導や許可事務に対する折衝を被告中村を手伝って行っていた。

(三) 被告中村は、産業廃棄物処理業者としての経験は皆無に近く、単に他の業者のやり方を見様見まねで始めた。現場所長の久保木や高沢も同様であった。したがって、第一処理場は、建築現場から出るコンクリート屑を含んだ土砂でまず土手を築いて、その中へ汚泥を捨て、天日乾燥と排水により水分を減少させ、乾いた汚泥の有償売却をはかるというだけの簡単かつ杜撰なものであった。そして、専門家による構造設計や強度計算等は、一切なされていなかった。

第一処理場は、前記2のとおり、被告石井所有地等の上に次第に拡充され、本件事故当時には、土手の内部で縦約一一〇メートル、横約三五メートル、土手の外部で縦約一二〇メートル、横約六〇メートル、面積概算五三六〇平方メートル、土手の高さは五・五メートル以上となり、汚泥の深さは五メートルを越えた。また、北側と南側に一つずつポンプがあって、これで水を排出した。

(四) また被告中村及びその使用人は、当初の土手では満杯になると、ユンボや昭和五二年後半か五三年ころから持ってきたクローラークレーンで、乾いてきた汚泥を中からすくい上げて土手に積み、さらに他からコンクリート屑等を運んできて、土手の上にくり返し新たに土盛りをして、言わばつぎはぎにより土手を高くしたため、土手の構造は一層脆弱なものとなったのである。土手は、汚泥の水分が浸透して柔らかくなって、後記4のとおり、本件事故以前にも何回かの小規模な漏水事故を起こした。

土手はこの土盛りの繰り返しにより、昭和五三年の夏ころには約三メートル、一二月には四ないし五メートルになり、ほぼ事故当時の土手の高さ、形状となった。そして、同五四年に入るとますます第一処理場に捨てる汚泥の量が増えてきたので、被告中村ら、特に久保木、高沢は、頻繁に土手を少しずつかさ上げし、また補修していた。その内容は、決壊したところや弱そうなところに土を盛ったり杭打ちをしたりする程度の応急措置であった。

(五) 土手は、東側及び西側には、産業道路側から、南方へ向かって、東側は土手の上に汚泥を積んだ車が上がるための進入路(幅三・七メートル)が、西側は汚泥処理機械等の作業用通路(幅三・五メートル)がそれぞれ作られていた。本件事故当時には、北側及び西側は、それぞれ幅が八ないし一六メートル(傾斜角度二〇ないし三五度)及び一一メートル(傾斜角度約三〇度)程あり、土盛りした上をブルドーザーで走って固めていたが、南側土手(幅約七メートル、傾斜角度約四〇度)と東側土手(幅平均五・五メートル、傾斜角度四〇度)の南側半分位は、土が水分を含んで柔らかかったのでブルドーザーが入れず、固めることができなかったので、より一層脆弱であった。この状態は、事故直前まで同様であった。昭和五四年に入ったころから、本件事故の決壊部分付近を中心に、土手には亀裂、漏水がみられた。

(六) 第一処理場は、昭和五二年の秋ころには、事故当時の広さにまで拡充され、それがひととおり一杯になった(土手の高さは約二メートル)ので、被告中村は、同年末ころから、産業道路の反対側の石井與四郎ほか所有地の第二処理場(別紙第二図面〈1〉)を始めた。第二処理場では、昭和五三年秋から一二月ころまでに、アースロック三台を入れて、高分子凝集剤を使用して汚泥を水と泥とに分離した。そして、山野栄一(以下「山野」という。)所有地に設置した保管場所(別紙第二図面〈2〉)に、分離した泥を積み上げる形で処理した。第二処理場を始めたので、第一処理場へはいったん投棄しないようにした。しかし、汚泥の量が多く、第二処理場で処理したものを置く保管場所が一杯になってきてしまって第二処理場へあまり入れられなくなったので、五三年夏以降、再び第二処理場で処理しきれない汚泥を第一処理場へ捨てるようになった。

(七) 被告中村は、第一処理場を始めた初期のころから、汚泥の搬入券を前売りし、それを持ってきた者は埋め立てさせる方法を採っていた。大型は八〇〇〇円か一万円、小型は三〇〇〇円か四〇〇〇円である。搬入券の枚数は、第二処理場のアースロックが順調に稼働することを前提にし、さらに機械代金は人件費等の資金繰りを念頭に置いて被告中村が決めていたので、第二処理場で、現実に処理できる量を越えて発行されることもあった。そして、現場に来てしまった者に対し、汚泥を捨てさせないわけにはいかなかったので、第一処理場に捨てさせていたのである。

被告中村は、昼間は東京都江戸川区にある事務所へ行っていたり、昭和五四年に入ると、保管場所が一杯になったので、他のアースロックにより分離した土の置き場所を探しに出歩いていたりして、現場で第一処理場へ捨てるようにと指揮をとっていたわけではなかったが、現場にいる使用人らは、埋め立てに来た者を待たせると、被告中村から叱責されるので、ためらわずに第一処理場に捨てさせ、被告中村もそれを了承していた。

(八) 第一処理場には、ダンプやバキュームカーで一日五〇台から八〇台が、主に夜に捨てに来た。昭和五四年一月八日から四月一三日までの搬入量は別紙一覧表のとおりであり、五三年秋から五四年春にかけてずっとその状況は同じであり、特に事故前夜だけ多量に搬入したわけではない。

4  (第一処理場による被害の発生)

〈証拠〉によると、以下の事実を認めることができる。

(一) 被告中村が、第一処理場に、汚泥の投棄を始めて間もなく、昭和五二年の夏前には、産業道路から、原告藪塚運輸や同日野興業の土地建物方向へ向かう道路(元来は水路であったが、もと原告日野興業の関係者が、通行の用に供するために、製鋼場の滓を敷いた。被告中村が処理を始める前は、水が溜まることもなく、道路としての役目をしていた。)が冠水して通行が困難になってきた。

そこで、当時原告日野興業の役員で市川倉庫の責任者であった鈴木貞夫(以下「鈴木」という。)は、同年六月、被告市の下水道課に電話をして、この旨伝え、対策を要請したので、同月下旬、同市の係員数名が現地を訪れ、被告中村と面談した。また、同じく七月下旬にも同様に電話をした。その後被告中村は、スコップを持って自分のことを密告したと怒鳴り込んで来た。

このように、原告日野興業では、この後も、被告中村及び使用人らに対し、汚泥流出等の被害を受けたことを伝えて、対策を要請すると、同被告らは、一応流出汚泥の後始末をしたこともあったが、一見暴力団風で、とかく逆に脅迫的言辞に及ぶので、原告日野興業の従業員や下請け業者らは、文句があっても、恐ろしくて十分物が言えないきらいがあった。そのため、原告日野興業はやむなく八〇万円程度を支出して、出入口付近に砂利等をしいて汚泥が入って来ないようにしていた。

なお、原告日野興業では、前記の鈴木のほか、事務員の辻や小岩が被告市に電話で道路が冠水している旨を報告している。

ところで、原告日野興業の従業員らは、いずれも、被告中村が産業廃棄物処理業者であるとか、その監督官庁はどこであるとかの知識を有してはいなかったが、被告県や同市の職員が来ているのを見ると、お互いに「役所の人が来ている。」と話をして、監督官庁が被告中村の処理場を監視しているとの認識を有し、安心していた。その「役所の人」は、第二処理場及び保管場所のみならず、第一処理場の方も十分見ていた。

(二) その後も前記道路の冠水はひどくなる一方であり、また、西側及び南側の土手の中腹から水が滲み出していることも度々あった。昭和五三年に入ると、小規模な汚泥の流出事故が発生するに至った。

まず、昭和五三年初めころ、第一処理場の南側土手の上部が崩れて汚泥が東亜運輸の方へ流出した。一〇月ころにも、同様に南側土手が崩れて汚泥が東亜オイルへ流出した。

昭和五四年一月下旬には、本件事故時に決壊したのと同じく東側土手の最南端部分の上部から水が流れ出し土手が崩れて汚泥が流出し、原告日野興業の市川倉庫の敷地内にまで汚泥が入ってきた。前記3のとおり、被告中村及び使用人らは、角材を持って来て、土手の崩れ落ちた部分にピラミッド型に打ち、補修をした。その場所はそれ以前にも三回ほど崩れたりしており、水気を含んでふくらみ、脆弱な感じであった。

いずれも南東側の土手が崩れた理由は、前記のとおりもともと土手が細く、ダンプで上を走って固めていなかったことに加えて、汚泥を産業道路側から捨てるので、比較的固い部分は北側に溜まり、水分の多い方がいったん南西方向へ向かい、西側土手で反転して南ないし東側へ流れて行ったため、土手が水分で一層弱くなったためである。

昭和五四年三月ころには、南側の土手の窪部部分から水が流れて土手が削り落され、東亜オイルの方へ汚泥が流出して文句を言われ、被告中村は汚泥をバキュームカーで回収し、土手には土を盛って補修したが、この時に南側にあった排水溝を埋めてしまった。

三月二八日には、保管場所から、産業道路から原告日野興業へ至る道路へ汚泥が流れ出て、被告市から注意を受けたこともある。

なお、昭和五三年一〇月には第二処理場の北側の土手が幅一メートルか一・五メートル位、深さ一メートル位にわたって決壊して流出事故が起きたり、同年暮れころ、原告健次が保管場所の汚泥に落ちて原告日野興業の従業員らに助けられるという事故もあり、被告中村の処理場はいずれも小規模な事故を起こしていた。

(三) 前記3のとおり、第一処理場の土手は、材質も、コンクリート屑等でそれ自体水分を含んで脆弱になり、含水率の高い多量の汚泥を堰き止めるには不適当なものであるし、また構造は、くりかえし積み上げては、一部についてはダンプ等を走らせて固め、他はそれさえしないという弱いものであるうえ、その高さに比較して角度が急勾配であって不安定なものであった。

そして、前記のとおり昭和五三年に入ると、土手が崩れて汚泥が流出する小規模な事故が続き、昭和五四年に入ると、土手は水分を含んでふくらみ、水が滲み出してきたり、ひび割れが生じたりしだし、土手崩れによる汚泥の流出事故が続くようになった。

(四) 原告日野興業の従業員らは、前記のとおり、被告中村にも文句を言い、被告市にも連絡して「役所の人」の来訪も何度かあったので、様子を見ていた。

しかし、昭和五四年に入り、第一処理場の危険性は高まる一方で、改善の気配がないので、四月一一日に、原告日野興業常務の鈴木が、今後の汚泥投棄について相談しようと呼びかけて、右鈴木と同社長室長の佐野保雄、近隣の東亜オイルと吉豊興業、地主の山野が、四月一二日に、原告日野興業の市川倉庫の食堂に集まった。地主の被告石井にも連絡はしたが、選挙運動で多忙のため、出席できず、あとで山野が話を伝えた。そして、地主から被告中村に対し投棄をやめることを働きかけ、被告県や同市にも働きかけることになった。この席で、原告日野興業は、吉豊興業から教えられて、被告中村の扱っている汚泥は、産業廃棄物として被告県の行政指導を受けているということを知り、被告県の担当者として生活環境課の細矢係長の名前を聞いた。

翌日、地主の山野は、被告中村に電話をして汚泥投棄をやめるよう申し入れたので、被告中村から、鈴木に対し、脅迫的言辞の電話があった。一方、佐野は、被告県や同市に対し、電話を入れたところ、被告県や同市の方では、説明するまでもなく、状況を良く認識している様子であった。

5  (被告中村と被告市の関係)

前記4のとおり、原告日野興業の鈴木が昭和五二年六、七月に被告市へ電話を入れたところ、同市の職員が六月下旬ころまた七月ころ現場を見に来て被告中村と面談したことがあるほか、〈証拠〉によると、以下の事実を認めることができる。

(一) 被告市においては、環境清掃部清掃事務所の収集係が、ごみの不法投棄等の苦情に対して出動していた。それとは別に、被告市は、ごみの夜間不法投棄に対するパトロールも行っていた。そして、産業廃棄物について不法投棄等がなされているのを発見した場合には、一般廃棄物に準じて清掃工場で処理できる廃材等以外については、清掃事務所長名で収集係長が、県保健所に連絡し、また産業廃棄物が農地に投棄されている場合には農業委員会に連絡することとしていた。

この連絡は、産業廃棄物に対する通報体制が整備されていて、上司の指示によりそれに沿って行うというよりも、担当者個人の独自の判断に基づくものであり、現実に各部署間で連絡がとられることはほとんどなく、各部署は独自の判断で自己の権限による指導監督を行っていた。被告県に対する連絡も同様である。被告市の各部署の行った指導監督等は以下のとおりである。

(二) 当時の清掃事務所収集係長の横田方太郎(以下「横田」という。)は、昭和五三年六月中旬、機械を入れた第二処理場が建設されているのに気付き、久保木に対し、被告県知事の許可を受けるよう指導し、そこが農地であると考えられたので、農業委員会にも連絡した。横田は、同年一一月七日、同月一〇日にも現場で指導し、また、同年一二月二一日及び翌年四月一〇日には被告県職員と共に現場へ行っている。

(三) 被告市の農業委員会は、昭和五三年一月、農地の埋め立てのパトロールを行っている際に、被告中村が第二処理場を建設していることに気付き、農地造成申請手続書その他必要書類を提出するよう指導をした。農業委員会から清掃事務所に対しては連絡はしていなかった。農業委員会は、その後も本件事故に至るまで、第二処理場について、必要手続きの履行や、付近住民の苦情を受けてその対応を指導した。

(四) 被告市水質課の平本課長は、昭和五三年一月、第二処理場付近住民の井戸水に関する苦情を聞き、調査したところ、被告中村が、産業廃棄物である汚泥の埋め立てをしていることが判明したので、被告県の生活環境課に連絡をした。

(五) 被告市道路管理課でも、昭和五三年一二月以降、被告中村に対し数回道路の清掃を指導している。

(六) 昭和五四年一月一七日、被告中村から被告市の市長宛に、産業廃棄物処理業許可申請に関する意見書交付を申請し、同市の関係各課は協議のうえ、二月二三日に、被告中村に意見書を交付した。内容は、法及び関係諸法令の遵守、排水処理の注意、隣接農地への汚泥流出防止、道路清掃、農地法五条の許可等が要請されたものであった。

6  (被告中村と被告県の関係)

〈証拠〉によると、以下の事実を認めることができる。

(一) 被告県の産業廃棄物処理業者に対する指導監督は、環境部生活環境課の担当である。そして、ベントナイト汚泥の処理業者に対する指導監督の当時の担当者は安井信一郎(以下「安井」という。)であった。安井は、他の産業廃棄物処理業者についても、御園生博(以下「御園生」という。)とともに担当していた。安井及び御園生は、それぞれ工業高校と、大学の工学部を卒業した、いわゆる技術系の職員である。

(二) ところで、被告県では、従来ベントナイト汚泥については、含水率が高くなく、土地造成工事に利用できる土砂に準じた性質のものもあり、産業廃棄物といえるかどうか疑問もあったので、含水率の高いもの(目安は八五パーセントを越えるもの)は、ベントナイト等を含んでいても、産業廃棄物として取り扱うことにして、要綱を制定し、昭和五三年九月一日から施行した。

そして、ベントナイト汚泥等の処理業者には、処理施設を昭和五四年二月末日までに閉鎖する場合には、同五三年一〇月末日までに暫定措置を講じ、それに係る計画書を作成して被告県知事の承認を得ること、同五四年二月末日経過後も処理を行う場合には、暫定措置及び同五三年一一月末日までに法一五条の産業廃棄物処理施設の設置届出を、同五四年一月末日までに法一四条の許可申請をしなければならないとした。

(三) そこで、被告県の生活環境課では、以後これに沿って処理業者の指導監督を行うこととした。

まず、要綱施行にあたり、判明している処理業者には通知をして、昭和五三年九月に、この要綱の説明会を行った。

生活環境課では、前記のとおり、同年一月に、被告市からの連絡を受けて、被告中村を呼んで事情を聞いている。そこで被告中村は、五二年四月にも被告県に許可の要否を尋ねに来たが、明確な回答がなかったので、そのまま埋立てを開始したものであるが、今後は被告県の指導に従うと述べた。しかし、この時は、被告県としての指導方針、特にベントナイト汚泥の取扱いが定まっておらず、被告県は、被告中村に対し、後日協議のうえ連絡すると述べたが、右説明会の時までそのままになった。なお、被告市から住民の苦情が被告県にあがってきたのは、安井の記憶では、ベントナイト処理業者については、被告中村の件一つだけであった。ところで、被告県には被告中村が昭和五二年四月に来た際の記録が残っていない。

被告中村については、このように前から指導をしているので、被告県は被告中村のことを処理業者であると把握していたのであるが、手違いがあって、被告中村は右説明会に出席できなかった。

(四) 説明会に出席した処理業者は数十社あり、被告中村は後で出席者から要綱のことを話に聞いたので、同年一〇月一一日に、県庁へ出向いて必要な手続き等について指導を受けた。この時、安井は、被告中村に対し、暫定措置計画承認申請書を出すようにと指導した。

一一月二八日には、被告中村は、暫定措置計画承認申請書をいったん提出したが、埋立処分場(第一処理場)及び中間処理施設(第二処理場、以下同じ。)それぞれにつき、断面図が添付されていないとの理由で、安井が返却した。

一二月四日に、被告中村は、再び暫定措置計画承認申請書を提出したが、安井は、今度は、中間処理施設と最終処分場(第一処理場)は区分し、個別に暫定措置計画承認申請書を提出するようにと、また再提出を指示した。

一二月一一日には、中間処理施設について暫定措置計画承認申請書が提出され、安井は、近日中に現地確認検査を実施したい。埋立処分場(第一処理場、以下同じ。)の暫定措置計画承認申請書を早急に提出するように、と述べた。

一二月一八日には、埋立処分場の暫定措置計画承認申請書が提出されたが、また断面図が添付されていないという不備があったので、返却した。この時、埋立処分場は埋立てが完了し、今後は埋立処分は行わないとの話があった。この話が、その前から被告中村を補佐して被告県と折衝にあたっていた田山が言ったのか、被告中村本人が言ったのかははっきりしない。被告中村側から出たこの話に対し、安井は、新たな埋立ては行わないにしても、有償売却するまでは産業廃棄物であり、保管基準(法施行規則八条)がかかり、また産業廃棄物処理場たる保管場所としてやはり暫定措置計画承認申請書を出してほしいと述べた。しかし、被告中村側は、第一処理場については、もう何ら書類は出さなくて良いと言われたと解釈した。現実に、その後県側からは第一処理場について積極的に暫定措置計画承認申請書さらに産業廃棄物処理施設としての許可申請書の提出は求めていない。

(五) 一二月二一日には、現地調査が行われた。

被告県は、当日は暫定措置計画承認申請書の出ている第二処理場及び、埋立てはやめて保管場所にするという第一処理場を現地で確認するためにでかけたものである。被告県は安井と御園生が、被告市はいわば案内役として横田らが行った。そして安井らが、第二処理場のアースロックの稼働状況を見て説明を聞き、それから、第二処理場で処理した汚泥の「保管場所」への案内を求めたところ、被告中村は、別紙第二図面記載〈2〉の保管場所へ案内した。安井らは、ここは、前記埋立処分場、すなわち第一処理場と同じ場所であると認識していた。ここには、第二処理場で処理された乾いた汚泥が積まれ、高さは二ないし三メートルになっていた。

そして、被告中村は、この汚泥は有償で売却できる価値のあるものであって産業廃棄物ではないと主張し、現実に有償で売却するまでは依然産業廃棄物であるから、要綱に基づく暫定措置計画承認申請書を出してほしいと言う安井らとの間で口論となり、安井らは、被告中村を宥めるのに懸命になって、保管場所について十分な確認はしないまま、被告中村の事務所へ戻った。被告中村は、結局保管場所について暫定措置計画承認申請書を出すことに同意した。また、第二処理場に誤って最終処理場との立札がたっていたので、安井は、これを中間処理施設に訂正することを指示した。

安井らは、当日、被告中村作成の、第一処理場の記載のある図面(別紙第六図面)も持参しており、一見して第一処理場と保管場所との場所の違いは認識しえた。また、前記3のとおり、当時第一処理場は、汚泥の投棄を続け、その土手は約五メートルに達し、産業道路側からのダンプ進入路がつけてあり、排水口が存在し、産業道路側にはもと現場事務所に利用していたバスがあり、場合によっては昼間でも汚泥を積んだトラックが来るのであるから、わずかな注意を払えば使用を継続していることは容易に判明するものであった。また、土手に上がれば、土手の高さ、幅、角度、材質等の構造や中の汚泥の量や水分も一見して見てとれるのであるから、前記のとおりの土手の脆弱性や汚泥流出の危険性がわかったはずであった。

(六) 一二月二六日には、被告中村について、生活環境課内で、中間処理業の許可申請書を出させること、そのために有償売却について報告書を提出させること等を検討した。

昭和五四年一月一〇日、保管場所の暫定措置計画承認申請書、中間処理業事業計画書、収集運搬事業許可申請書について被告中村側から相談があり、安井が指導した。そして前記報告書についても指示した。

一月一七日、保管場所の暫定措置計画承認申請書、中間処理業計画書、前記報告書、収集運搬業許可申請書が提出された。安井は、売却先の伝票や領収書を補足書として提出するよう指示した。

二月一四日に、右補足書が提出された。この時、この有償売却の適否については検討して連絡する、保管場所は、天日乾燥でも中間処理施設であるから再度法一四条の設置届出を被告市を通じてするよう指示した。

(七) 二月二〇日には、収集運搬業が許可された。収集運搬業の許可要件は、産業廃棄物が四散、流出し、悪臭が生じないような運搬車両等、同様な保管施設、及び収集運搬を的確に遂行するだけの能力が必要である(法施行規則一〇条)。中間処理施設の許可関係については、被告市の意見書の関係や、国有地の関係で、許可申請が要綱所定の昭和五四年一月末日までにできず、結局暫定措置期間である二月末日までには許可が出ない見込みであったが、被告中村は、せめて収集運搬だけでも許可がほしいと希望したので、安井は、二月末日を過ぎたら中間処理施設は使わないようにと念を押した上、これだけ先行することとした。

(八) 二月二六日には、被告中村が、被告市の意見書(二月二三日交付)と中間処理施設の設置届出と廃棄物処理施設使用開始報告書を提出した。

二月二七日には、被告市から被告県に対し、意見書につき電話で連絡があり、安井は、被告中村に電話で、被告市の清掃課へ行って指導を受けるようにと連絡した。

三月一六日には、被告中村は、農地転用許可申請書受理証明書(写)と国有地境界確定協議書の交付申請書(写)を被告市に提出して、意見書について了解を得られたと述べたので、被告県としては、被告市に確認のうえ、今後は中間処理施設の許可申請手続事務に移る方針とした。

三月一七日には、被告中村から、収集運搬業に加えて、中間処理業の許可を求める処理業変更許可申請書が提出された。

(九) 四月一〇日には、被告県、同市による現地調査が行われた。被告県は安井と細矢善信係長、被告市は横田、亀田竹文らである。

(一〇) 被告県が、当時要綱に基づいて指導していたベントナイト汚泥の中間処理及び埋立処分の処分業者は数社だけであり、許可申請の受理に至ったのは、被告中村だけであった。収集運搬業者についても、許可申請に至ったのは数社だけであった。

7  (本件事故の発生)

前記争いのない事実に〈証拠〉によれば、次のとおり認められる。

昭和五四年四月一四日午後七時ころ、第一処理場の、東側土手最南端部分幅二〇・一メートルが決壊し、約五・三メートルの高さの土手を押し出すようにして、汚泥が原告藪塚運輸、同日野興業、東亜オイル方向へ流出した。原告藪塚運輸所有の本件二の土地と原告日野興業の市川倉庫の敷地全域に汚泥が流れ込み、深いところで一・九メートル以上となり、原告藪塚運輸所有の本件建物及び原告日野興業所有の市川倉庫の建物も一部汚泥に埋没し、建物内部でも、原告健夫の一家が居住していたプレハブ平屋内部では一メートル以上にまで汚泥が流入した。流出汚泥の量は合計約四四四二立方メートルに及んだ。

第三  本件事故の責任

前記第二の認定事実を基礎として以下主たる争点である被告らの本件事故に対する責任の有無について判断する。

一  本件事故の原因

そこで右判断の前提として本件事故の原因についてまず検討するに、前記第二の二の3・4認定の事実に基づくと、本件事故は、第一処理場の東側の土手の南端部が決壊したために発生したものであるが、第一処理場は、本件事故当時には汚泥の深さが五メートルを越えた状況になったが、第一処理場の堰堤になっている土手の構造が、乾燥した汚泥を積み上げて、コンクリート屑で固めていくという専門家による構造設計や強度計算が一切なされていない全く素人手法で造られており、右の構造の故に土手が汚泥の水分を吸収し易い軟弱なものであった上、決壊個所の東側土手の南側半分位と南側土手は十分固めておられなかったのでより軟弱であったこと、それに加えて土手の幅が北側及び西側でそれぞれ約八ないし一六メートル及び約一一メートルであったのに比して南側及び東側でそれぞれ約七メートル及び約五・五メートルの狭いものであったので、土手内部の汚泥の圧力が不均等にかかり東側土手の南端部分が汚泥の土圧をより受け易い構造になっていた上、汚泥を東側土手の北側部分から投棄するため、投棄された汚泥が南西方向に向かい西側土手で反転して南側土手と東側土手方向に回流して移動するので、東側土手の南端部分が汚泥の圧力をより強く受け易い状況にあったこと、以上のような第一処理場の土手の構造、形態、汚泥処理の状況を併せ考えると、本件事故の原因は、第一処理場の堰堤になっている土手の前記決壊部分が第一処理場にほぼ満杯近くまで投棄された汚泥の土圧に耐えられず亀裂を生じ、遂に決壊するに至ったものであると認定するのが相当である。

二  被告中村の責任

前記第二のとおり、第一処理場は、土地に接着して人工的に築造した設備であり、土地の工作物に該当する。また、被告中村は、個人企業主である産業廃棄物処理業者として、これを設置管理していたので、工作物の占有者にあたる。さらに、第一処理場は、前示一のとおり構造上の欠陥を有していたのであるから、その設置保存には瑕疵があったものである。そして、この瑕疵により本件事故が発生し、後記の損害が発生したのであるから、被告中村は、民法七一七条一項に基づき、原告らの損害を賠償すべき責任があると言うべきである。

三  被告県の責任

1  被告中村が第一処理場で処理していたのは、ほとんどがベントナイト汚泥で、リバース汚泥も一部含まれる、法二条三項に規定される産業廃棄物である。したがって、被告中村は、産業廃棄物処理業者である。

2  県知事は、法一四条に基づき、産業廃棄物処理業の許可を与え、法一五条に基づき、廃棄物処理場の設置届出を受け、その処理場が厚生省令等の定める技術上の基準を満たしていない場合には、改善命令や使用停止を命じ、法一八条に基づき、産業廃棄物処理業者から報告を徴収し、法一九条に基づき、立入検査をし、法一九条の二により措置命令をする権限を有する。

3  第一処理場は、前記第二の二の3・4のとおり、構造的に脆弱であって本件事故以前にも崩壊事故や水漏れ等を繰り返し、投棄量に比較して容量が不十分であった。

したがって、前記第二の二の6のとおり被告中村が被告県に提出した埋立処分場の暫定措置計画承認申請書が書類不備で返却された昭和五三年一二月一八日の時点で、被告中村が第一処理場への汚泥の投棄をやめて保管場所として使うのであるとしても、法施行規則一二条以下に規定されている産業廃棄物処理施設の技術上の基準のうち、構造耐力上の安全性(一二条一号)、十分な容量(同条七号)、流出防止のため必要な構造又は設備の設置(一二条の二、四号)等を満たしていなければならないが、第一処理場は、これらを満たしていなかった。

また、被告中村が右時点以後も依然として第一処理場への汚泥の投棄を続けているのであれば、それは最終処分場であるので、法施行令六条一号に定める汚泥の埋立処分を行う場合の技術上の基準(囲いを設け、産業廃棄物処分場であることの表示をする等)を満たしていなければならないが、第一処理場は、これらを満たしていなかった。

そしていずれの場合にも、知事には、前記のとおり、法に基づき、右各技術上の基準を満たしていないことが判明した場合には、その改善を求める権限がある。

4  そこで、県知事の、第一処理場について、前記各権限を行使すべき義務の有無を検討する。右義務が発生するには、第一処理場が土手の決壊という結果発生の危険性を有し、県知事がそれを認識し得たこと、各権限を行使し得たこと、各権限の行使により結果発生を回避し得たことが必要である。

(一) (結果発生の危険性)

前記第二の二の4のとおり、昭和五三年に入ってから第一処理場に小規模な崩壊事故が続き、昭和五四年に入ってその土手から水が滲み出したりひび割れが生じたりまた崩壊事故が生じたりしだしたのであるから、被告県の職員が現地調査をした昭和五三年一二月ころには、第一処理場が土手の決壊の危険性を有する状態になっていたものと認めることができる。

(二) (県知事の結果発生の危険性の認識可能性)

(1) 被告市や同県の資料には、前記第二の二の4の、昭和五二年中に、原告日野興業の関係者が何度か被告市に苦情を述べて、同市の職員が来訪した事実や、本件事故直前に、地主の山野を呼んで対策を検討し、被告県にも連絡を入れている事実が記載されていない。

しかし、前記第二の二の4のとおり、所属部署や正確な時期は不明であるが、「役所の人」は本件現場付近にはかなりパトロールをしていて、保管場所や第一処理場の方もよく見に来ている事実が認められること、〈証拠〉によっても、昭和五三年の初めころに、被告県の職員が被告中村の事務所へ来る等、前記第二の二の5、6で認定した被告市や同県の現地調査よりも多く、被告県や同市の職員が、被告中村を来訪している事実が認められることからすると、昭和五三年一二月二一日及び同五四年四月一〇日の現地調査日の当日かあるいは同じころの他の機会に、被告県や同市の職員が、第一処理場の昭和五三年末から同五四年にかけての現況を現認していた可能性が極めて高い。

(2) また、第一処理場の現況を現認してはいなかったとしても、前記第二の二の3、4のとおり、第一処理場は、昭和五三年一二月には、土手の決壊の危険性が客観的に生じ、昭和五四年に入って本件事故に至るまで、右危険性は増大する一方であったのであるから、前記二回の現地調査日の時に、少しの注意を払って第一処理場を現認しさえすれば、右危険性を認識することができたものと言わなければならない。

そして、〈1〉前記第二の二の6のとおり、被告中村は、昭和五三年一二月一八日か少なくとも一一日まで、第一処理場について図面入りの書類を被告県に提出しており、同県の職員は現地調査の日にもその図面を持参していたこと、〈2〉前記第二の二の3ないし6のとおり、第一処理場は、被告県の職員も現地調査したことを認める第二処理場や保管場所に近接し、産業道路に面して五メートル以上の高さを有するという形状で、極めて目につきやすい存在であったこと、〈3〉前記第二の二の6のとおり、被告県は要綱を制定して、ベントナイト汚泥等の処理業者には、専門の職員が行政指導を行い、被告中村に対しても、第二処理場については、かなり細かな技術上の問題点について指摘し、改善を促していたことと比較して、第一処理楊についても、前記技術上の基準を満たすように指導することを期待しても無理とは言えないこと、などから右少しの注意を払うことは十分可能であったと言える。

(3) このように、被告県の担当職員は、第一処理場の現況を現認し又はし得る状態にあったのであり、その危険性をまた認識し得る状態にあったものと言える。

(4) 当時、被告県の産業廃棄物処理業者の指導監督を担当する生活環境課と、被告県の内部の他の部署や、被告市の各部署との間に、廃棄物処理業者の指導監督を有する事実を発見した場合に連絡する体制が完備していなかったことは、前記第二の二の5のとおりであるが、右連絡体制の不備の評価はさておき、被告中村については、生活環境課で把握して行政指導を行い、内部でも検討していたのであり、その結果は、生活環境課を統括する最高責任者である課長にまで上がっており、さらに、組織規定により、知事に責任のある事項は知事にまで上がるという構造であった(〈証拠〉)。

(5) したがって、被告県知事は、同県の内部の組織機構を通じて、第一処理場について、本件事故の結果発生の危険性を認識し得たものと認められる。

(三) (権限行使の可能性について)

(1) 被告県は、前記第二の二の6のとおり、生活環境課を設け、必要な職員を配置して、産業廃棄物処理業者に対する指導監督に関する事務を担当させていた。本件事故を防ぐべく被告県知事が法上の各権限を行使する場合には、右担当職員がその行使にあたることとなる。

前記第二の二の6のとおり、被告中村は、まず自分の方からも指導監督を仰ぎに来ており、生活環境課の方で把握している業者であった。産業廃棄物の、夜間他人の山林に無断で投棄していくようないわばゲリラ的不法投棄が社会的問題となっていて、担当官庁がその監視に苦労しているのは公知の事実であるが、被告中村はそのような業者ではなかったのであるから、被告中村に対する指導監督は、特に困難なものとは言えない。

(2) 被告中村に対し、被告県知事ないしその手足たる職員が、第一処理場につき、法所定の技術的基準を満たすようにさせるには、まず、報告聴取、立入調査及び改善勧告を行政指導の中で行うことが考えられるが、このような産業廃棄物処理業者に対する行政指導は、正に生活環境課の日常の職務であって、その人員、予算内で十分行える職務である。なお、被告中村について、第二処理場及び保管場所については詳細な行政指導を行っていたことは既に述べたとおりである。

(3) 被告中村が、右行政指導に従えば、それで結果発生の危険は回避できるし、仮に被告中村が右行政指導に従わなければ、その段階で改善命令や使用停止命令を出して、それにより結果発生の危険を回避し、それでも効を奏しない場合に、措置命令へと進むことが考えられる。このように、法所定の権限を状況に応じて段階的に行使するのは、人員や予算の点を考慮しても決して無理を強いるものではない。

(4) したがって、被告県知事には、権限行使の可能性があったと言うべきである。

(四) (結果回避の可能性について)

被告中村は、前記第二の二の6のとおり、要綱が制定される以前から、自分から県庁へ何度も出向いて行政指導を仰いでそれに従う旨表明し、現実に第二処理場や保管場所については、また、当初は第一処理場についても、被告県の行政指導に沿って各種書類を提出し、不備を指摘されると何度も提出し直す等の行動をとっており、行政指導には良く従っていると評価できる。

それに照らすと、もし、被告県の職員が、法所定の知事の各権限を踏まえて、第一処理場につき、技術的基準を満たすように行政指導を行っていれば、それに従って改善がなされた可能性があるし、仮に行政指導に従わなければさらに進んで使用停止等もできるのであるから、被告県知事の権限行使により、結果発生を回避し得たと言える。

5  以上のとおり、被告県知事には、その権限を行使すべき職務上の義務があったと言えるのであり、それにもかかわらず、その権限を行使しなかったのは、裁量権を逸脱し、違法であり、その結果後記の損害が発生したのである。

そして、法に基づく県知事の各権限は、国からの機関委任事務である(地方自治法一四八条二項、別表第三(二十の二)参照)、から、被告県知事の前記裁量権逸脱の違法行為に基づく国家賠償法一条に基づく損害賠償責任については国が本来負担すべきであるが、県は県知事の給与費等の負担をする費用負担者であるから、被告県は、国家賠償法三条一項に基づき、原告らの損害を賠償すべき責任がある。

四  被告市の責任

原告日野興業、同森及び同吉田は、本件事故について、被告市に国家賠償法一条に基づく損害賠償責任があると主張する。

しかし、法一一条、一二条、一四条、一五条の規定によると、産業廃棄物処理業者に対する規制監督権限を第一次的に有するのは、都道府県知事であると認めることができる。そして、法二条並びに第二章及び第三章の規定によると、法は、産業廃棄物と一般廃棄物についての規制監督権限を、市町村が処理することが必要であると認めるものと、より広域的に処理することが適当であると認めるものについて、それぞれ市町村と都道府県とに概ね振り分けているが、これは、それぞれの性質の違いに対応して、地方公共団体としての権限を分掌させたものであり、合理性を有すると考える。そうすると、産業廃棄物処理業者に対する指導監督権限の不行使につき違法性が認められる場合に、損害賠償の責に任ずるのは都道府県であって市町村ではないから、本件事故については、前記原告らの、被告市に対する請求は失当である。

なお、原告らは、民法四四条及び同法七一五条に基づく請求もしているが、廃棄物処理は、地方公共団体の公務に属する事項であり、これに関連して生じた損害の賠償については、国家賠償法の適用を検討すべきものであり(この点の請求が認められないことは前記のとおりである。)、民法上の損害賠償の規定は適用がないから、これら民法上の請求は失当である。

五  被告石井の責任

前記のとおり、被告石井は第一処理場の敷地の所有者であり、これを被告中村に賃貸した。原告らは、被告石井に、賃貸人としての安全配慮義務違反があったと主張する。

1  しかし、賃借人がその行為について第三者に対し違法責任が問われる場合には、不法行為における個人責任の原則からして、賃借人がその責任を負うべきであって、賃貸人が賃借人の行為についてまで第三者に対する関係で違法行為を回避すべき安全配慮義務を負担することは賃貸借契約上の付随的義務としても一般的に肯定することはできないと解するのが相当である。

そしてたとえ賃貸人として、賃借人に違法行為があれば、賃貸借契約上の誠実義務違反として、賃貸借契約を解除することができる場合があるとしても、それも第三者に対する関係において右解除の措置を講じないことが賃貸人の安全配慮義務違反になるかは、賃貸人が賃借人の不法行為を認識しながら、かつその被害者から賃貸人に対し右措置をとるように催告されたにもかかわらず、右措置を講じないことが違法と判断されるような例外的場合に限られると解するのが相当である。

2  そこで、前記第二の二の2のとおり、被告石井は被告中村との当初の契約においては、契約書に土地の範囲も明記せず、使用目的も漠然と埋立とするのみであってその内容が判明せず、賃貸人として、確かに軽率であったとも言えるが、第一処理場の拡充に気付いてからは、新たに土地の範囲や右埋立の内容、遵守事項等を定めた契約書をかわして第一処理場が万一汚泥処理場に対する法規制に違反した場合に法的責任が問われることがないように努力している。そして、結局被告石井は、右試みに失敗したものの、被告中村から、埋立は終了して近く返還するとの約束を取りつけた。しかしこれも、口約束に過ぎず、また一年以上も履行されずにいたのではあるが、〈1〉第一処理場は元来休耕田であってあまり見に行かず、昭和五三年夏ころ見に行った時には、乾燥してひび割れていたので、返還するとの約束は本当であると信じたこと、〈2〉右現認した際の状況からして第一処理場の危険性を認識していなかったこと、〈3〉また付近住民からも被告市や同県からも第一処理場の危険性を指摘して地主としての対応を求められたりしたことはなかったこと等を併せ考えると、被告石井にその所有する第一処理場敷地の賃貸人として、賃借人の被告中村に対し、本件事故前に賃貸借契約を解除する措置を講じなかったことをもって違法とすることはできないと言わねばならない。

したがって、被告石井に対する請求は失当である。

六  以上のとおり、本件事故による損害については、被告県が国家賠償法三条一項、被告中村が民法七一七条一項に基づき、それぞれ損害賠償責任を負うものである。また、被告県と被告中村とは、民法七一九条一項の共同不法行為者というべきであるから、それぞれ連帯して損害賠償責任を負う。

第四  原告らの損害

以下原告らが本件事故によって受けた損害について検討する。

一  原告藪塚運輸の損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告藪塚運輸は、本件建物(二階建ての建物、風呂場、車庫の三つの建物)が流出汚泥に埋まる被害を受けた。本件建物は、いずれも汚泥で汚損され、基礎や壁が破壊される等して使用不能となった。本件建物は、いずれも昭和四四年ころの新築にかかるものであるが、補修するよりも新築する方が、費用は安く、それぞれ、その費用は、二〇九三万円(新築費用二二〇三万円から二階建て建物の取壊し費用一一〇万円を除いた金額)、四四七万円、五〇四万円である。また、二階建て建物の階段のそばに飲料水用の井戸があったが、これも汚泥に埋まって使用不能となったので、新たに掘り直すことが必要であり、その費用は二一六万円である。

本件建物の、取壊し費用は、一一〇万円である(証人寺島の証言中にある本件建物の取壊し費用が一五〇万円と聞いている旨の供述は採用しない。)。

そうすると、本件建物は建築後一〇年を経過しているので、本件建物の耐用年数を二〇年とみると、新築建物についても一〇年の減価償却分を利得したことになるので、結局新築費用の二分の一相当額が本件事故と相当因果関係ある損害とみるべきであるから、二階建て建物、風呂場、倉庫の各新築費用の各二分の一に相当する金額について計算すると、それぞれ一〇四六万五〇〇〇円、二二三万五〇〇〇円、二五二万円となる。

結局本件建物及び井戸の汚泥による損害は、以上の本件建物の各新築費用、取壊し費用及び井戸工事費用の合計一八四八万円となる。

2  原告藪塚運輸は、本件二の土地及び本件建物を、昭和四五年ころから同五〇年ころまで、賃料月三〇万円で賃貸し、また昭和五〇年からは建物を返してもらって土地だけを、賃料月七万円で賃貸していた。したがって、本件二の土地を使用できないことによる損害は、最低月七万円とみるのが相当である。

そして、原告藪塚運輸が本件二の土地を使用できなかったのは、昭和五四年四月一四日から、被告県が行政代執行によって汚泥を除去した同年八月三日まで(〈証拠〉)の一一一日分であるから、それに対する月七万円の割合による賃料相当の損害金は、二五万九〇〇〇円である。

3  したがって、被告中村及び同県が賠償すべき原告藪塚運輸の損害額は、一八七三万九〇〇〇円である。

二  原告日野興業の損害

1  〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

(一) 原告日野興業は、本件現場の市川倉庫を、同社の仮設トイレ、浴室、見張り小屋等の組立販売部門の配送センターとして、これらの部材を保管し、注文があると、これを下請け業者に運搬させて現地で組み立てさせるための基地として使用していた。

(二) この市川倉庫の土地建物が、流出汚泥で、一メートルから一・九メートルにまで埋没し、また破壊され、さらに汚泥が被告県の行政代執行で除去されるまでの間、使用できなかった。

(三) 汚泥の流出により損傷を受けた建物等の修理補修費用、すなわち、原告日野興業の看板取替費一二万円(〈証拠〉)、市川倉庫の破損修理費用五五万一五〇〇円(〈証拠〉)、市川倉庫の破損修理部材費三九万二四〇〇円(〈証拠〉)、右の修理工賃一三万一二五〇円(〈証拠〉)、同倉庫のパイプ取付・補修部材費二二万〇四〇〇円(〈証拠〉)、同倉庫の電気配線工事費六〇万円(〈証拠〉)、同倉庫のドア製作費一七万三四〇〇円(〈証拠〉)、同倉庫の棚改造費二五〇〇円(〈証拠〉)、同倉庫の掘削井戸の復旧費六五万円(〈証拠〉)、同倉庫補修の部材費合計二四万三〇七八円(〈証拠〉)、同補修用足場の部材費一一万五八九五円(〈証拠〉)、同倉庫の内部の清掃整備費一五万九四一四円(〈証拠〉)の合計三三五万九八三七円である。

(四) 汚泥による建物等の汚損の清掃整備復旧のため、人夫を雇ったり、部材等を購入した費用は、合計七二万九八九〇円である(〈証拠〉)。

(五) 汚泥除去まで日数がかかり、その間建物が使用できなかったので、仮設事務所、仮設工場を建設したが、その費用は、仮設事務所が、電灯工事(〈証拠〉)、鋼材の切断・塗装(〈証拠〉)、組立(〈証拠〉)の合計二五万七八〇〇円、仮設工場が、鉄骨(〈証拠〉)、組立(〈証拠〉)の合計一〇四万円、以上合計の一二九万七八〇〇円である。また、倉庫を賃借し、その費用は、二一万五五〇〇円である(〈証拠〉)。

(六) 下請け業者の車両が汚泥に漬かって使用できなくなったため、車両四台をリースした費用が四七万六四〇〇円である(〈証拠〉)。

(七) 汚泥により使用できなくなった什器備品の時価は、八二万五五五二円(〈証拠〉)である。

(八) 市川倉庫に本件事故当時あった前記の部材品の在庫商品(〈証拠〉)が汚泥に埋って販売不能となった。右在庫商品の仕入価格総計は七七九六万八九七九円である(右の各証の在庫商品金額の合計)。

そうすると、原告日野興業が右によって受けた損害額は、右仕入価格相当額であると認定するのが相当である。

〈証拠〉によれば、市川倉庫の在庫商品が汚泥によって埋り販売不能となったことによる損害は、在庫商品の販売価格であり、その販売価格は前掲甲ロ各号証の販売金額(昭和五二年一〇月から同五三年一〇月までの販売実績から商品別の仕入原価率を出して、これで商品毎に仕入価格を割って算出したもの。その合計一億〇三一三万五七八三円になる。)との供述をしているが、在庫商品の全部が完全に販売されることはないこと、商品の販売については運送費、宣伝費その他もろもろの経費がかかることを考慮すると、右供述のとおり在庫商品の販売価格をもって損害の基礎とすることは採用できない。

2  原告日野興業はその余に、フォークリフト一台の損壊による損害を主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

3  以上の建物補修費、清掃整備費、仮設事務所費、車両リース費、各物品の損害額、在庫商品の販売価格の合計額八四八七万三九五八円が、原告日野興業の本件事故と相当因果関係のある損害である。

4  原告日野興業が、本件訴訟遂行にあたり、弁護士に依頼し、手数料支払いを約したことは、弁論の全趣旨により認められる。そして、本件訴訟の難易、経過、認容額等を勘案し、弁護士費用のうち二〇〇万円が、本件事故と因果関係を有する損害と認めるのが相当である。

5  したがって、被告中村及び同県が、原告日野興業に対して賠償すべき損害は、八六八七万三九五八円である。

三  原告森の損害

〈証拠〉により、以下の事実が認められる。

1  原告森は、本件事故当時、原告日野興業の市川倉庫の一部の、平屋建て軽量鉄骨スレート造りの建物と、平屋の小屋(別紙第一二図面の斜線部分)部分を借りて森製作所の名前で、原告日野興業の下請けとして、自分のトラックで注文先へ部材を運搬して、流し台、トイレの製造加工と塗装をしていた。しかし、本件事故により、前記平屋建て建物は五〇センチメートルから一メートルにわたって埋没し、その他機械工具類も埋没して使用不能となり、また汚泥が除去された八月上旬まで休業せざるを得なかった。

2  使用不能となった機械工具については、新品で購入すると一五万円の電気熔接機が四台、同じく二万円のベビーサンダーが二台、二万円の電気ドリルが一台、三万円のサンダーが一台あったが、これらは、一年ないし三年使用した中古であった。また、五万円程度の小物工具一式があった。これらが、汚泥により汚損、損壊されて廃棄せざるを得なかった。以上の機械工具類について約三分の二の減価償却すると、本件事故時の時価は電器熔接機が二〇万円、ベビーサンダーが一万三〇〇〇円、電気ドリルが、六〇〇〇円、サンダーが一万円、小物工具一式が一万五〇〇〇円、以上合計二四万四〇〇〇円となる。さらに、仕事に使用していた二トントラックが、汚泥に埋没したため結局四回修理に出して、その費用は合計二六万〇五〇〇円かかった(〈証拠〉)。

3  原告森の昭和五三年度の売上高は、三六九二万二六六三円であり、月平均は三〇七万六八八八円である。そして昭和五四年四月一日から一四日までの売上高は一八七万三八〇〇円であったが、同月一五日から七月までは休業を余儀なくされた。したがって、右休業による損害は、昭和五四年四月(四月一五日以降の分)につき一二〇万三〇八八円、五月ないし七月につき各三〇七万六八八八円、合計一〇四三万三七五二円である。

4  原告森は、例年五月ころ、鋼板・鋼材のスクラップを、廃品回収業者に売却して五万円位得られるはずであったのが、本件事故により得られなくなった。

5  また、原告森は、仕事について前記のとおりの損害を受け、将来のことを思い悩んで一年ほど苦しみ、その結果昭和五五年九月ころ胃潰瘍と十二指腸潰瘍の診断を受けるほどの精神的打撃を受け、三か月間位(週に二回ほど)通院した。これを慰謝するには金三〇万円が相当である。

6  以上の機械工具類等について減価償却した残存価格合計二四万四〇〇〇円、トラック修理費用二六万〇五〇〇円、休業損害について一〇四三万三七五二円、スクラップ代五万円及び慰謝料三〇万円の合計一一二八万八二五二円が、原告森の本件事故と相当因果関係を有する損害であり、また、原告森が本件訴訟を遂行するについて、弁護士に委任し、手数料の支払いを約したことが弁論の全趣旨により認められるので、前記と同じ考慮のもとに、弁護士費用一一〇万円が、本件事故と相当因果関係を有する損害と認められる。

7  以上のとおり、被告中村及び同県が、原告森に対して賠償すべき損害額は、一二三八万八二五二円である。

四  原告吉田の損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告吉田は、原告日野興業の下請けとして、自分のトラックで部材を運搬して、仮設トイレ、風呂、ガードマンボックスを注文先で設置又は解体する仕事をしていた。

本件事故により、原告吉田のトラックが汚泥に漬かって損壊したため、修理が必要となり、修理代金は三〇万円かかった。そして、修理の間、レンタカーを借りて営業し、その代金のうち三日間分、二万五六〇〇円を負担した。

2  以上の合計三二万五六〇〇円は、原告吉田の本件事故と因果関係を有する損害であり、原告吉田が本件訴訟を遂行するについて、弁護士に委任し、手数料の支払いを約したことが弁論の全趣旨により認められるので、原告吉田が請求する弁護士費用三万円は、本件事故と相当因果関係の範囲内の損害とみるのが相当である。

したがって、被告中村及び同県が、原告吉田に対して賠償すべき損害額は三五万五六〇〇円である。

五  原告健夫らの損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告健夫は、原告吉田と同様に、原告日野興業の下請けとして勤務していた。そして、妻要子と長女の原告優美子、長男の原告健次、次男の原告稔、次女の原告良江、及び本件事故で死亡した三男利夫の五人の子供とともに、市川倉庫内の建物の一つに居住していた(別紙第一二図面の×印の記載のある建物)。

本件事故発生時には、原告健夫は不在で、要子は食事の支度をし、子供たちはテレビを見ながら待っていた。そこへ汚泥が押し寄せ、建物の窓や床下から入ってきて、要子は流し台とともにドアに叩きつけられ、全身汚泥に埋まり、利夫以外の子供たちは、かろうじて押入れによじのぼって難を逃れたが、利夫は生後七か月の赤ん坊であり、炬燵でミルクを飲んでいる状態であったので、汚泥に埋まり、約三〇分後にレスキュー隊に救助されたが、窒息死した。要子や他の子供達は、近くにいた原告小松崎、同河西、同萩原らにより救出された。

2  前記利夫の死亡による逸失利益は、昭和五四年度の男子全年齢平均給与額二四万九二〇〇円を基礎として、一八歳から六七歳までの四九年間稼働可能であり、生活費を二分の一控除したうえ、ライプニッツ方式により中間利息の控除をした、一一二八万七二六四円(249,200×1/2×12×7.549)である。

また、利夫の死亡による慰謝料は、金一〇〇〇万円が相当である。

そして、利夫が死亡したので、両親である原告健夫及び要子が、前記の債権二一二八万七二六四円を、二分の一の一〇六四万三六三二円ずつ相続した。

3  原告健夫及び要子は、その共有にかかる家具類について、汚泥による流出及び汚損の被害を受け、その総額は、五四万一〇〇〇円であり、各自の債権は二分の一の二七万〇五〇〇円である。

4  要子は、子供を失い、また汚泥にたたきつけられた上全身埋まるという恐ろしい体験をした。また、原告の優美子、健次、稔、良江は、押入れに逃げてかろうじて汚泥から逃れるという恐ろしい体験をした。これらの肉体的精神的苦痛による損害を慰謝するには、要子は金一〇〇万円、その余はそれぞれ金五〇万円が相当である。

5  要子は、昭和五七年九月二七日死亡し、その債権一一九一万四一三二円は、夫の健夫が二分の一である五九五万七〇六六円を、子供である原告の優美子、健次、稔、良江及び好美が、それぞれ一〇分の一である一一九万一四一三円を相続した。

6  以上のとおり、本件事故と相当因果関係を有する損害類は、前記の合計額、すなわち、原告健夫が一六八七万一一九八円、原告の優美子、健次、稔及び良江がそれぞれ一六九万一四一三円、原告好美が一一九万一四一三円であり、同原告らが本件訴訟遂行にあたり弁護士に委任して手数料支払いを約したことは、弁論の全趣旨により認めることができるので、前記と同じ考慮のもとに、原告健夫が一六八万円、原告の優美子、健次、稔及び良江がそれぞれ一六万円、原告好美が一一万円の各弁護士費用が、本件事故と相当因果関係を有する損害と認める。

したがって、被告中村及び同県が、原告健夫に対して賠償すべき損害額は、一八五五万一一九八円、原告の優美子、健次、稔及び良江のそれぞれに対して賠償すべき損害額は一八五万一四一三円、原告好美に対して賠償すべき損害額は一三〇万一四一三円である。

六  原告小松崎の損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告小松崎も、原告吉田、同健夫と同様に、原告日野興業の下請けをしていた。

原告小松崎は、本件事故により、仕事に使用していた自分のトラック及び通勤用の自家用車が汚泥に漬かって使用不能となり、また、仕事を休まざるをえないという損害を受けた。

2  トラック代金は、昭和五三年四月の購入価格九一万円(〈証拠〉)に、荷物の積み下ろしに使うパワーゲイト代金三四万六二二五円(〈証拠〉)を加えた一二五万六二二五円であった。本件事故がなかったならばあと七年使用可能であったところ、一年間しか使用できなかったので、これに七分の六をかけて減価償却した一〇七万六七六四円が右トラックの本件事故時の時価となり、損害となる。

3  乗用車(マツダ・ファミリヤ一三〇〇)は、本件事故の一年前に、二、三〇万円で購入しており、それまで四年乗った中古車でありあと三年使用可能であったので、その損害額は、少なくとも二〇万円に三分の二をかけて減価償却した一三万三三三三円である。

4  そして、トラックを六月に買うまでの間レンタカーで仕事をし、そのレンタカー代金三五万一四〇〇円を支出した。

5  原告小松崎は、本件事故前の昭和五三年の売上は、六七六万二六三〇円で、月平均は五六万三五五二円であり、原則は日曜祭日が休みで、一月の平均稼働日数は二五日である。そうすると、一日の平均売上は、二万二五四二円である。そして、事故後の後始末等で一〇日間休業した。ところで、トラック持ち込みの場合、ガソリン代等の経費を約三割差引くと利益高は売上の七割位であるので、右休業による損害は、右期間における売上の七割相当の一五万七七九四円となる。

6  以上のとおり、原告小松崎の本件事故と相当因果関係を有する損害は、前記合計の一七一万九二九一円であり、また、原告小松崎が本件訴訟遂行にあたり、弁護士に委任し、手数料の支払いを約したことは、弁論の全趣旨により認めることができるので、前記と同じ考慮のもとに弁護士費用一七万円が、本件事故と相当因果関係を有する損害であると認める。

したがって、被告中村及び同県が、原告小松崎に対し賠償すべき損害額は、一八八万九二九一円である。

七  原告河西の損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告河西も、原告日野興業の下請けをしていたが、本件事故により、仕事に使用していたトラックが汚泥に漬かって使用不能となり、事故の後始末等で休業せざるをえなくなり、また新しいトラックを買うまでレンタカーを使用し、その代金を支出する損害を受けた。

トラックは、五三年四、五月ころ、四〇万円で購入したものであり、それまで五、六年乗った中古車であと二、三年間使用可能であったところ、一年間しか乗れなかったので、その損害額は、少くとも四〇万円に三分の二をかけて減価償却し、二六万六六六六円が損害である。

レンタカー使用代金は、一日一万三五〇〇円の三〇日分で、四〇万五〇〇〇円である。

2  原告河西は、昭和五三年五、六月ころから月平均五、六〇万円の売上があり、日曜祭日が休みで、一月の平均稼働日数が二五日で一日あたりの平均売上は少くとも二万円であったが、本件事故により五日間休業した。前記のようにトラック持ち込みの場合の利益高は売上の七割位であるので、右休業による損害は、右期間における売上の七割相当の七万円となる。

3  以上のとおり、原告河西の本件事故と相当因果関係を有する損害は、前記の合計七四万一六六六円であり、原告河西は、本件訴訟を弁護士に委任し、手数料の支払いを約したことは、弁論の全趣旨により認められるので、前記と同じ考慮のもとに、原告河西が請求する弁護士費用七万円は、本件事故と相当因果関係の範囲内の損害と認める。

したがって、被告中村及び同県が、原告河西に対して賠償すべき損害額は、八一万一六六六円である。

八  原告萩原の損害

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

1  原告萩原も、原告日野興業の下請けをしていたが、本件事故により仕事に使用していたトラックが汚泥に漬かり、事故の後始末で休業せざるをえなくなり、またトラックを修理して使用したものの性能が低下したため営業の収益も低下した。

トラックの修理代金は八〇万円である。また、右修理中レンタカーを、一日一万三五〇〇円で、修理ができるまでの二五、六日使用した。そうするとその代金は少くとも二五日で三三万七五〇〇円を負担したことになる。

2  原告萩原の、昭和五三年中の年間売上は約六〇〇万円で、一年の稼働日数は約三〇〇日であるので、一日の平均売上は二万円であるが、ガソリン代等の経費として約三割を除くと一日当たり一万四〇〇〇円強の手取りとなる。そうすると一〇日間休業したので、右休業による損害は一四万円となる。(なお原告萩原は、トラック修理後の性能低下が継続したため収益力が低下したとして売上の減収を損害として主張し、原告萩原本人尋問の結果中に月三パーセントないし五パーセントの売上減になった旨の供述があるが、減収期間、右期間中の売上高を明らかにしないと、右の供述のみでは売上の減少を直ちに認めることはできない。)

3  原告萩原は、トラックから荷下ろしの作業をしているときに、突如汚泥に巻き込まれて埋まり、一瞬意識を失ったまま汚泥に倉庫の奥の方へ流され、物にぶつかった拍子に意識を回復し、倉庫の屋根に這い上って助かったが、その間生命、身体の直接の危険にさらされた。この精神的肉体的苦痛を慰謝するには、五〇万円が相当である。

4  以上のとおり、原告萩原の本件事故と相当因果関係を有する損害は、前記損害の合計九七万七五〇〇円であり、原告萩原が、本件訴訟を遂行するにあたり、弁護士に委任して手数料の支払いを約したことは、弁論の全趣旨により認められるので、前記と同じ考慮のもとに、弁護士費用一〇万円が、本件事故と相当因果関係を有する損害と認める。

したがって、被告中村及び同県が、原告萩原に賠償すべき損害は、一〇七万七五〇〇円となる。

第五  (結論)

以上のとおり、原告らの本訴請求は、被告中村及び同県に対して、原告藪塚運輸が損害賠償債権金一八七三万九〇〇〇円及び不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告日野興業が損害賠償債権金八六八七万三九五八円及び弁護士費用を除く内金八四八七万三九五八円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から、弁護士費用二〇〇万円に対する訴状送達日の翌日以後である昭和五七年四月二二日からそれぞれ支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告森が損害賠償債権金一二三八万八二五二円及び弁護士費用を除く内金一一二八万八二五二円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から、弁護士費用一一〇万円に対する訴状送達日の翌日以後である昭和五七年四月二二日からそれぞれ支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告吉田が損害賠償債権金三五万五六〇〇円及び弁護士費用を除く内金三二万五六〇〇円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から、弁護士費用三万円に対する訴状送達日の翌日以後である昭和五七年四月二二日からそれぞれ支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告健夫が損害賠償債権金一八五五万一一九八円及び弁護士費用を除く内金一六八七万一一九八円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告優美子、同健次、同稔及び同良江がそれぞれ損害賠償債権金一八五万一四一三円及びいずれも弁護士費用を除く内金一六九万一四一三円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告好美が損害賠償債権金一三〇万一四一三円及び弁護士費用を除く内金一一九万一四一三円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告小松崎が損害賠償債権金一八八万九二九一円及び弁護士費用を除く内金一七一万九二九一円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告河西が損害賠償債権金八一万一六六六円及び弁護士費用を除く内金七四万一六六六円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告萩原が損害賠償債権金一〇七万七五〇〇円及び弁護士費用を除く内金九七万七五〇〇円に対する不法行為日である昭和五四年四月一四日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれらを認容し、その余の請求は失当であるからこれらを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条但書、九三条、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。なお被告県の申立てに係る仮執行免脱宣言は相当でないから、これに付さないこととする。

(裁判長裁判官 上村多平 裁判官 難波孝一 裁判官 櫻井佐英)

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